喫茶店と日常

喫茶店とジャズと食べることが大好きな人間のちょっとしたつぶやき。

麺類とわたし

振り返るとずいぶん麺類を食べるようになった気がする。
今晩も家族で近くの蕎麦屋さんに足を運んだ。目の前の海老天とろろそばと向き合い、舌鼓を打つ。学校やバイトの帰りにふらっと立ち寄る家系ラーメンは悪魔的な魅力がある。麺をすすり、青かっぱとスープの染み込んだ海苔をご飯と一緒にかき込むと、
「いけないことをしているなあ」なんて罪悪感すらスパイスへと変わる。

 

海老天とろろそば!

こんなに麺類にメロメロ(?)な私だけれど、実は生まれて15~6年くらい、麺類を食べる習慣がなかった。蕎麦とラーメンにハマる前、ラーメンを食べた記憶は幼稚園の頃に行った近所の幸楽苑、家で食べたチキンラーメン、父が懸賞で当てたカップヌードル
そこから今に至るまでの記憶が一切思い出せない。蕎麦や素麺、パスタはラーメンに比べると比較的食べていたけれど、おそらく世間一般の感覚よりはかなり少ない頻度だと思っている。

というのも、最近まで麺類への「苦手意識」があったのだ。

事の始まりは、幼少期。

家だったか、出先のフードコートかでラーメンを食べた時「どうしてこんなにお肉や海苔が少ないの!」と幼いながら憤りを感じたことを、割と鮮明に覚えている。麺の上に乗ったチャーシューは1,2枚でペロッと食べきってしまうし、海苔だってパリパリと食べておしまい。器に残ったのはナルトやメンマ、たまに煮卵やほうれん草。そして大量の麺。当時はかなり偏食だったので、これらを食べ切るのがとにかく大変だった。
具材もさることながら、当時は麺をすするのが下手だった。ちまちまと麺を口に運んでいたら、次第に汁を吸った麺は伸び、かさが増えていく。メンマやほうれん草の苦手を誤魔化すために一緒に食べたかったチャーシューは先んじて食べてしまった。詰みである。

この経験が色濃く残り、ラーメンを始めとして麺類を食べる機会はほとんど無くなったのだ。そもそも、麺ばかりで主菜にあたるお肉とか、具だくさんの味噌汁、なによりお米を味わうことが出来ないのも不可解に思っていた記憶がある。

10数年の時を経て、私が再び出会ったのは「蕎麦」だった。

当時が中学2年生くらい、某アニメの影響を受け「カツ丼」にハマっていた。そこで母が連れて行ってくれたのが近所の蕎麦屋さんで、そのお店のカツ丼を食べた。カツの肉感と脂身のとろけるような味、卵のやわらかさと玉ねぎの食感、味のしみたご飯……
しかし人間というのは常に隣の芝生が青く見える生き物。対面に座る母が啜っていた蕎麦がやけに美味しそうに見えて、一口もらう。すると今まで苦手に思っていたはずの麺が、やけに美味しく感じたのだ。

ここから、私と蕎麦との蜜月が始まる。

カツ丼を頼む頻度が徐々に減り、蕎麦を注文することが増えた。天そば、きのこそば、鴨そば……私は特にあたたかい蕎麦が好き。加えて、蕎麦屋さんのおつまみメニューも私の好みにドンピシャで益々魅力的に感じた。コロナ禍になってからは蕎麦屋の出前を月に2,3度とっていた気がする。

「麺類」が食事の選択肢に入ってきた19歳の頃。大学生はことある事にラーメンを食べているイメージ(偏見?)を抱いていた私は、ラーメン屋に行くという密かな憧れがあった。そんな時中学時代の友人と久々に会う機会があり、彼女がよく行く家系ラーメンの系列店へと訪れた。
怖々と「麺、硬め。油は少なめで。」と店員のお兄さんに伝えたのを覚えている。有線で流行りの曲が永遠と流れていて、独特の空気だった。
そうしてラーメン屋デビューを果たした私は、家系ラーメンの虜になってしまった。キャンパスの近くに美味しい家系のお店があることや、地元がラーメン激戦区なこともありお店には全く困らなかった。気に入ったお店を何度も繰り返し訪れてしまうタイプなので、中々新しいお店に飛び込むことはできないのだけれど、せっかくなら地元のラーメン屋は制覇してみたい。

夜の家系ラーメンは罪(おいしい)

長々と語ってしまったが、これが麺類とわたしの関係性である。
自分が「苦手」と感じていた物がある日突然、もしくは、じわじわと、「好き」になることがあるんだなというのをこの経験から感じた。あんまり苦手だから、とか性にあわないからといって避けてしまうのはもったいなかったなと思う。

なんか、人生って本当にどう変化していくか分からなくてとても面白い。